昭和42年7月31日 夜の御理解
昨夜から久保山先生の御霊神様が、いろいろと、長男の茂さんに指導されたり、又は、頼みもされたりなさった話を致しました。とにかく、御霊神様言わば霊の世界にある人でも、人間私どもの世界の人間に、おかげを頂いておるものでも、幸せはどうしても肉眼をおいて心眼を開かせて貰うところからしか、真の幸せはないというような御理解でございましたですね。
そういう御理解を、今朝も又、今朝の御理解にもまあその延長のような、御理解を頂いたんです。そしたら御祈念がすんでからでした、若先生がここへ出て参りましてから、丁度その久保山さんが頂かれたお夢と同じ日に、僕も実はこんなお知らせを頂いたというて、そのお届けをするのです。
今まであの久保山先生が生前のように、あの若先生に何か、えらいこのそんなことじゃ駄目じゃないかと、言うて何か叱っておられるといったようなところであった。そしてそのマッチの軸のようなもので、こう板の上にですね、何か字を書かれる。平仮名ばっかりで、こう字を書かれた。その書かれた字がどういうことを書かれたかというと、書いておきましたが、「やらねばならぬこと、やってはならぬこと」と書かれた。「やらねばならぬこと、やってはならぬこと」ね。
信心をさせて頂く者の、このお参りさせてもらう、おかげを受ける。ね。成程、お参りをすれば、お参りをするごと、おかげが受けるという時代か。ね。お参りをすれば、お参りをするほど、自分の心の生活というものが変わってくる。言うなら肉眼の世界から、心眼の世界へ変わっていく。
今まで肉眼をもって見ておった難儀が、心の眼をもって見たら、それは神様のおかげのしるしである。神愛の現れであるというようなことがはっきり分かってくる。今まで苦しかったことが反対に、有難うなってくる。腹の立つほど涙が流れるほどに、腹が立つと言うておったのが、涙が流れるほどに有難うなってくる。
ここに信心をさせて頂く者の本来の姿というか、信心者というものの、生活がこの様なふうに、なっていかなければならないかと言うことが、感じられるところまで信心を進めていかないと、只参りゃ参るがたあるという信心では大したことはない。ですけども、どこまでも肉眼をおいて心眼を開かせて頂くところのおかげ。
又、そのための修行をさせてもらうことによって、私ども言わば、真実から真実を真実を追求して、その追求しただけでは与えられる。本当のことが分からせてもらえる。そこに本当の幸せ。ね。本当の幸せを頂かせてもらえる道に、お互いがご縁を頂いておるのでございますから、ここんところの精進。まあ、若先生、久保山先生が示されたという「やらねばならぬこと、やってはならぬこと」もう本当に当たり前のこと。
ある時、私は当たり前のことを、当たり前にしていくということ。実はその事が私どもには、やっぱり難しいんですね。やらねばならぬ事をやるということでも、やはり一つの勇猛心とでも申しましょうかね。やはり元気の心が生き生きとしてなからなければ、なかなか出来ません。やらねばならんことでも、そこを疎かにしごまかす。不行届きになるのです。
所謂、こうすることが本当だということを、こうするだけが信心なんのだけれども、こうすることが本当だということが分かっておっても、ようやらんのです。そこにどうでも信心の生き生きとした喜びが必要だと。信心の喜びが生き生きとしておる時には、そのことが、当たり前のこととして、もう淡々としてやってのけられる。というて、同時に「やってはならないこと」これはやることはもう楽です。実に平気でやる。やってはならないことを平気でやってしまう。そして人間だからこの位のことは、当たり前のじゃになってしまう。そこに私は人間性というものは、段々なくなっていくのではないだろうかと思う。
神の氏子としての、本来の姿というものが、段々なくなって、所謂、人間臭くなって、人間臭さだけなら良いけれども、言わば人面中心と言ったようなことになってくる。顔形だけは人間の面をしておるけれども、心は本当に鬼じゃろうか蛇じゃろうか、犬畜生に劣り果てたと、いったようなことに性が変わってしまうのです。それはどういうことからと言うと、やってはならぬことを平気でやるようになる。やってはならんことでも、それが良心の呵責も何にもない。やってはならないことだとも思わない。
もうそれこそ平然と当たり前の事のようにやってのけるですね。ですから私どもはそこの所をです、やってはならぬこと、やって良いことのけじめをつけるところに教えがある。ね、教えに基ずかせて頂いておりましても、やはり、ハァやってはならんことを、又やった。そこにお詫びをする、がある。神様、又失敗いたしました。ね、そこにお詫びがある。そこにお詫びの示として修行も又ある。ね。詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから、例えばそこんのところへ、例えばやってはならないことに精進するということにも、やはり元気な心がいる。どちらに致しましても、やらねばならん事をやらしてもらうことにも、やはり勇猛心というような心が必要。であるように、やってはならないことをね、もう当然人間として、人間の道に外れておる。そういうことをやってはならない。いや人間の道じゃない。教えを頂けば頂くほど、神様の心に叶わないことをです、平気でやっておる。それを気付かせてもらい、それをやらんぞと言う気持ちになることにでも、やはり生き生きとした元気な心が望まれるわけなのである。
皆さんどうでしょうか。又ご無礼した、又失敗した。神様又、やってはならないことをやってしまいました。ね。そういう時に私は信心させて頂く者の教えを常に頂いておる者の、姿というものは、何とはなしに神様から御覧になったら、ね。いじらしいとでも申しましょうか。甘木の初代安武先生に、ある人が例えば御教えの中に、この地内を淫りに汚すなよと仰る。・・?頂くものがそこのところにいつも心掛けでおる。ところがつい御地内を汚してしまう。信心のない者は、そんなことなんか全然知らない。御地内を汚すとか、汚さないとか、そんなこと全然問題にもしていない。だからそれは勿論平気でやることは、当たり前。ですから親先生、そのどちらの方が、神様に対して御無礼になるでしょうか。全然知らん者が犯す。知った者が犯す。
それで先生が仰ったそうです。皆やっぱりここで、御理解を頂いておったから、皆さんはどう思うかと言われた。皆がそれに答えて言うたことは、それは、やっぱり知らんの不足じゃけ、神様が知らんのがすることじゃけ、神様がこらえて頂くでしょう。知らんなするとなら、その知ってするとが一番悪かでしょう、と言うて申し上げた時に、安武先生が仰ったそうですね。そげなふうに見えるけれども、実際はそうじゃないぞ。やっぱり罪は罪。御無礼は御無礼なんだ。信心があっても、なくても同じことなんだ。知って犯しても、知らんで犯しても同じことなんだ。ね。こりゃ例えば御地内を淫りに汚すなといったようなことじゃない。もう一事が万事そうなのである、ね。
なぜその知っておってから御無礼をするのは方が、まだましかと言うとですね。例えば御地内を汚しても、神様、すみませんと言うて、お詫びして汚しておる。だからやはり知って信心があって、知って汚した、知って御無礼をしたという。言うならば知ってハァこんなことは、してはならんのだけれど、信心をさして頂いて、こんなことを言うちゃならん。こんなことをしちゃならんのだけれどもと、やってはならないことをやった時にです、やはり、信心させて頂いておればそこに良心がある。神様すみません。御教えに反しますけども、許して下さいというような気持ちで犯すから、それの方がまだましじゃと仰ったそうです。
ね、ですから私どもがですねならその、すみませんと言うたり、お詫びしたりだけですね、それやぁなんとか詫びれば許してやりたいと仰るのだから、許して下さろうけれども、昨日から頂いております様に、信心させて頂く者は、どうでも一つ肉眼をおいて、心眼を開かせて頂くところの、おかげを頂かせてもらわなければならんというような精進。そういう願いに燃えておる人であるならばです。やって良いこと、やってないことのけじめをつけて、やらなければならん事は、例えばそれはきついことであっても、苦しいことであっても、神さまにお縋りして、そこを修行と思うてやってのけさせてもらえる、元気な心が必要であると同時に、やってはならんことをです、本気で私は神様にお縋りして、そこんところを元気な心で、汚さずにすむ、御無礼せんですむ、やらんですむおかげを、頂かしていくくらいな元気な心がなからなければ、私は元気な肉眼をおいて心眼を開かせて頂けるというようなおかげは頂かれないと思うですね。どうぞ。